がん哲学外来とは

樋野興夫著「教会でもがん哲学外来カフェを始めよう」いのちのことば社より抜粋

 

「二人に一人ががんになる時代」と言われます。それだけ、がん告知を受ける人が多いということです。しかし医学も日進月歩で進歩していますから、告知されても、すぐに人生が終わるわけではありません。ここに新しい人生の課題が生まれます。「告知された後、がんを如何に受け入れて、がんと共に如何に生きていくか」ということです。これは当人はもちろん、家族や友人など、患者と親しい 方々の課題にもなります。しかし従来の医療はがん治療には大きな力を発揮しても、この課題に取り組むことは不十分でした。私の造語「がん哲学」は、この課題に取り組むものです。

 

聖書に、よく知られた、こういう言葉があります。目の見えない人がいました。誰かが何かの罪を犯した為に目が見えないのだろうか、と問う弟子たちに対して、イエス・キリストが言いまし た。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9.3)。

 

これはがん哲学にとって、重要な言葉です。がん告知を受けると、人は「なぜ、この私が」と問わないではおれません。何が悪かったのか、と過去を振り返ります。でも必要なのは、過去を振り返ることではなく、未来を見ることです。これから、如何に生きるかを考えることです。生きる向きを転換しなければなりません。「なぜ」ではなく「如何に」。「ホワイ(why)」ではなく「ハウ (how)」。この方向転換が重要です。

 

イエス・キリストは「神の業がこの人に現れるためだ」と言いました。つらい現実の中でも、自分に与えられている使命があると知れば、顔つきは変わり、生きることに前向きになります。これががん哲学外来カフェの目ざすところです。